2025-03-29

父の死

14才の春。4月からは中学3年生。18年前の今日(3月29日)は父の葬式。父は18年前の3月27日に林業の事故で帰らぬ人となった。父は当時57才。

当時のことは今でもはっきり覚えてる。前日の3月26日、所属していた軟式野球部内で、3年生を送る会的なことをしていた。親も参加したりで、ワイワイ楽しく。夕方くらいにへとへとで帰宅して、夕食を食べてから眠たかったのでずっとコタツで寝てた。そして、9時になると『釣りバカ日誌』の映画が始まる音で目が覚めて、いい加減布団で寝ようとした。ちなみに父は釣りバカ日誌が好きだったので、テレビで放送される釣りバカはいつも一緒に見ていた。父は釣りバカ日誌を見始めたとこで、僕は「おやすみなさい」、父は「はい、おやすみなさい」。これが父と交わした最後の会話になった。

翌日、3月27日。父が仕事に行く車のエンジン音で目が覚め、「あ、お父さん仕事行ったわ」くらいの感覚で。その当時、野球ひじのケガのリハビリに通っていたので、母と久居の病院へ行き、リハビリ後はサンバレー(今のイオンモール津南にあったイオンの名前)に寄って、買い物してとご飯を食べた。その時買ったプーマのスニーカーは今も残してある。家の駐車スペースに付いたのが昼過ぎで、到着してすぐ、1台のパトカーが目の前に停まった。2人の警察官が降り、母も車から降りたけど、僕は何となく嫌な予感がして車内でとどまった。すると、かすかに聞こえる3人の会話が断片的に耳に入ってきた。それが「松阪病院」「遺体」「きれいにする」の3つのワード。僕はとてつもなく嫌な予感がしてきて、車から降りると、警官の後ろには見たことのあるおっちゃん。それは父が勤めていた、林業会社の社長だった。その人がやってきて「お父ちゃん、死んでしまったんや」と泣きながら僕に伝えてきた。その時、どんなリアクションをしたかは覚えてないけど、無言で頷いたようにも思う。その後すぐ家に入って、自分の布団の中に入った。とりあえず、呼吸がうまく出来ていない感覚で、吸っても吸っても肺に酸素が入らない感覚。心臓か肺に穴でも開いてしまったのだろうか。そして布団の中で色々考えた。「めんどくさいな」。なぜそう思ったのかというと、当時僕はひょうきんにふるまうキャラで常にクラスを笑わせて盛り上げようする中学生だった。「みんな笑ってくれなくなるかも」「みんなに気を遣われるのがめんどさくいな」と思った。人に気を遣わせるのが嫌いだったから、まずそんなことを思ったんだと思う。

松阪病院へは母と祖母と僕がそろって行き、兄は松阪工業高校の部活があって、我々より早く病院に着いていた。到着して案内されたのが集中治療室。先に着いていた兄を見ると目を真っ赤にしていたけど涙はなかったので、僕らが来る前に泣いたんやなと思った。で、肝心の父は病院のベッドで裸になって上向いてた。口も空いてた。体は真っ白やった。死んだ父を目の当たりにしたけど、なぜか涙はでなかった。哀しいっていう勘定がなぜか湧かなかった。担当してくれた主治医の説明を家族全員で説明を受けた。「打ち所が悪かった」と。父は何か(何かは結局はっきりしないまま)で頭を打って、即死したらしい。頭を見ると小さな瘤ができてて、言われないとスルーしてしまいそうなくらいの瘤だった。一通り主治医の説明を受けると、部屋の中は暗く重たい空気に包まれたので、僕は病院の受付ロビーのテレビに映し出されていた春の選抜高校野球を見て、気を紛らわせた。第3試合の終わりかけで見始めたのでロビーに1人でいた時間は数十分くらい。テレビがニュースに切り替わったので、父のいる部屋に戻ると、見たことのある親戚が集まっていた。そして、父は亡くなった人専用の部屋みたいなところへ移動。遅れて集まる親戚たち。人はどんどん増えていくけども、空気は相変わらず重い。その空間にいることがとにかく嫌だと思っている時、自宅へ帰る段取りになった。父が乗る専用の車には兄と母が、僕は親戚の車で帰ることに。僕らが家に帰ると近所の人がすでに集まってて、僕らは直ぐ家の片づけをして、父を布団の上に置いた(死んだ人を置くという表現があってるかは分からない)。その日は、それで疲れて寝たと思う。父は29日の朝に火葬することが決まり、28日は一日家にいて、みんなに顔を見てもらう段取りとなった。この時、僕はまだ一粒の涙も流せなかった。なぜかは29日になって分かった。

28日に続く・・・

いつ書くか分からないけど笑

命日に仏壇に線香あげるの忘れてました。

お父さんすまん!

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